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Q&A: スピリチュアルカウンセリングはどの位の間隔で受けたら良いですか?

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 スピリチュアルカウンセリング と聞いて、皆さんはどのようなものを思い浮かべるでしょうか?本題に入る前に少々用語の整理からさせていただきます。  再三指摘させていただいている通り、日本ではスピリチュアルという言葉が際限なく広い意味で使用されているために、 スピリチュアルカウンセリング と名乗るものも実に多くの形式があるようです。  例を挙げれば、実態は色彩心理学から派生したカラーセラピーであるのに、スピリチュアルカウンセリングと看板を掲げる方もいらっしゃるようです。なぜカラーセラピーではダメなのか疑問に思います。  日本で スピリチュアルカウンセリング という造語が一般化したのは、 スピリチュアルカウンセラー と名乗る霊媒師が、2000年前後にメディアに登場して活躍するようになったのが起源と考えられます。   その霊媒師は当時、 英国スピリチュアリズム に関わる 霊媒(ミディアム) の手法でセッションを行なっていましたし、実際に英国スピリチュアリズムの霊媒養成機関で学んだという事実は、彼が明らかにしている経歴でもあります。  ですから、英国スピリチュアリズムを標榜する霊能者であるのなら、 ミディアム あるいは サイキックミディアム と名乗るのが穏当でありましょう。  さて、その英国スピリチュアリズムの範疇でスピリチュアルカウンセリングに当てはまるものは何かと考えた時、 プライベートシッティング(private sitting) が相応しいでしょう。プライベートシッティングとは、霊媒が 仲介者(medium、ミディアム) となって、この世の人間と霊界の住人のコミュニケーションを実現する事です。   霊界の住人とは既に亡くなった知人や近親者の場合もあれば、人生のコーチ役である 指導霊(守護霊や背後霊と呼ぶ方もいます) の場合もあります。質問者様はこのうちの 指導霊とのセッション の事を指していらっしゃるとの前提でお話を進めます。      プライベートシッティングの中でも指導霊とのセッションは 「霊的査定」 と呼ばれています。   指導霊はあなたの人生を俯瞰して、時には優しく、時には厳しく監督しながら、今回の人生で学ぶべきもの、身につけるべき徳性等が得られるように援助してくれている存在です。  セッションで指導霊は、 あなたが生まれる前に描いた人

あなたはスピリチュアリストですか?

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  スピリチュアリストとは「霊性を重視する人物」のことです。自分自身の霊性、相手の霊性、事象の霊性etc…  霊性を重視する人物ということは、様々なことがらに対して、その内面にあるものやその意義といったものに重きをおいて物事を判断し、行動する人物と言うことができます。  ですから本当のスピリチュアリストは、まず自分自身について、見栄や虚飾、偽善を嫌い、自らの内面性(霊性)が穢(けが)れないように、自分自身にある未熟な部分や悪と戦い、それらを排除しようと努力しています。  また自分以外の誰かを評価する場合でも、その人の言動や振る舞いに惑わされずにその方の内面性(霊性)で評価しようと冷徹な目を持つように心がけています。  自分の身近な環境、あるいは世界で起きている様々な事象についても、扇情的なものは排除、そして可能な限り俯瞰して判断することで、事象の本質を評価し、その本質から学び取ろうと努力しています。  このように描写するとまるで堅物の修行僧や研究者みたいなイメージになってしまいますが、本当のスピリチュアリストは、同時に創造主への信仰や信頼があるので、楽天的でとても明るい雰囲気を醸し出してもいます。      世間一般では、スピリチュアリストとは「スピリチュアルに興味がある人」「スピ系に関わっている人」「スピリーダー」「霊媒」etc、の事を指している様に思われがちですが、そうではないのです。  スピリチュアリストとは、その方の考え方、生き方、信念、信仰まで、全人的な人物像を指す言葉なのです。  さて、本来の意味のスピリチュアリストの哲学的、思想的バックボーンになるものは「霊的真理」と呼ばれているものです。  霊的真理は何世紀も前から様々な形で伝え続けられているものですが、近年は「スピリチュアリズム」がその役割を担っています。  霊性を重視するということは、人間の霊的側面、単刀直入に言えば人間の本質は霊であることを認めることができなければ、そもそもスピリチュアリストという土俵に上がることはできません。  ひいては霊の世界の存続を認めること、さらには神法とも呼べる法則の存在を認めることで、スピリチュアリストの哲学的バックボーンは強化されるのです。  筆者自身はというと、おこがましくて、自分を「スピリチュアリスト」と名乗ることはとてもできません。  いつの日かそう名乗れるよ

死を考えることは生き方を考えること

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ある日のワークショップ。 瞑想の時間に、ある受講生の方が「私はどう死にたいのだろう?」という所に初めて意識が向いたとお話ししてくれました。 その時点ではその方は答えを得られていないようでしたが、近い将来にきっとその方なりの理想像を得ることができると思います。 とても良い視点を持たれたことで、これからの人生をより充実させることができることと思います。     「死を考えることは生き方を考えること」でもあります。 私たち人間は否応なく死に向かって人生を歩んでいます、例外はありません。 今世の卒業式である「死」の瞬間をどう迎えたいのか、更に言えば、死後にどういう境遇でありたいかということを考えることはとても有意義なことです。 理想の死に方をイメージするのが難しければ、どんな死に方は避けたいかを考えても良いでしょう。 例えば…   長い闘病生活は嫌だな… 介護で世話をかけるのも申し訳ないな… 遺品整理で面倒をかけたくないな… 孤独死は嫌だな… 自分が死んだ事を喜ばれるのは悲しいな… etc そして、避けたい死に方の反対が理想の死に方になります。   できるだけ長く健康で、何かの役に立っていたいな… 亡くなる直前まで自分のことは自分でできるようでいたい… さっぱりと清々しい気持ちで最後を迎えたいな… 少人数で良いから見送られながら逝きたいな… 少しは惜しまれて旅立ちたいな… etc こうして考えていくと、 心身の健康を保つ努力をしなくっちゃ… 他人のためになるスキルなり知識を持たなくっちゃ… 所有するものは少なくしておこう… 人間関係を断つようなことやわだかまりを残しておいてはいけないな… 人柄を良くしておかなくっちゃ… etc というふうにこれからの生き方の目標が明らかになってきます。 目標のある人生と、ただ時間を潰すだけの人生では今後の生活へのモチベーションは自ずと違ってくるでしょう。 死の瞬間に感じる充実感も違うことでしょう。 更にあちらの世界に行ってから、人生を振り返ってみた時の自己評価も多分に違うことでしょう。 「死」は決してネガティブなものではありません。 寿命を全うして死を迎える限りにおいては、この世からの卒業式であり、祝福されるものであります。 あなたはどんな卒業式を迎えたいでしょうか?

Q&A 霊訓の厳格さについて行けません

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【質問】   スピリチュアリズムの霊訓は道徳性を説いていると感じます。それを真面目に守っていると損をしている気持ちになることもあるし、霊訓には厳格なところもあるので投げ出したくもなります。どうしたら良いでしょうか?   【回答】    子供の頃、雑誌の付録や工作の時間などで何かを組み立てたり、算数の時間に画用紙で立体図形を作ったりした経験はどなたにでもあることでしょう。男の子の場合でしたら、プラモデルを作った経験は一度くらいはあると思います。そういった場合、必ず糊や接着剤用の 「のりしろ」 と呼ばれる余剰スペースがありました。   「のりしろ」 があるおかげで上手く綺麗に組み上がりました。仮に 「のりしろ」 が無いままに組み立てようとしたら、組み立てに苦労するでしょうし、安定性や耐久性に欠けるものが出来上がることでしょう。  また、自動車をはじめとした機械類には、操作する部分に 「あそび」 と呼ばれる余剰部分があります。ハンドル、アクセル、ブレーキ、クラッチ等にある、操作してもすぐには反応しないための機能です。 「あそび」 はドアや窓といった建具、あるいは日本中に張り巡らされている電線にもあります。暖かい時期に電線をピンと張ってしまうと、気温が下がった冬などには、内部の銅線が緊縮してしまい断線する可能性があるので、電線を張るときは余裕を持たせて張るのです。  以上のような 「 のりしろ」 や 「あそび」 というものがなくなってしまったら、かえって脆くなったり、意図しない急激な変化が生じて危険性が増したり、融通性が無くなることでちょっとした変化に対応できなくなってしまいます。  これと同じく、精神衛生上、私たちの心にも 「のりしろ」 や 「あそび」 を持つことは大切なことです。    さて、スピリチュアリズムがもたらした霊訓に限らず、既存の宗教の多くは、人の生き方として ”善なる道” を説いています。それを 道徳 と捉えても間違いではないと思います。しかしながら自分で考える事をやめてしまい、霊訓や歴代の聖典に述べてある事を鵜呑みにし、その説く道から一歩もはみ出さない事だけを生き方の信念としてしまったらどうなるのでしょう?おそらく精神的に苦しいだけの人生になってしまうのではないでしょうか。   中にはそういう苦しみの中に身を置く事で、自分が成長できているように勘違いを

スピリチュアリズムの学び方

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 スピリチュアル界ではマイナーに思われがちなスピリチュアリズム。私もずっとそうだと思い込んでいました。しかしながら、ネット検索で見つけて個人セッションを受けに来られる方にインタビューしてみると、意外や、スピリチュアリズム関連の知識を持たれている方や霊的な体験をされている方が多数。  興味本位でいらっしゃる方は皆無で、皆さんそれぞれに人生の岐路で思い悩んだ末にたどり着いたご様子です。多数派とは言えないまでも、世の中の心ある方に、ひっそりとじんわりとスピリチュアリズムって浸透しているんだなぁと認識を新ためる経験をさせていただいています。   スピリチュアリズムの勉強というと、他のスピ系と混同されることが多く、超能力開発や霊能開発ばかりやっているように誤解されがちですが、現実は違います。 確かにそういった不思議な能力を持った人がスピリチュアリズムの普及に一役買っているのは事実です。しかしながら、言い過ぎかも知れませんが彼らは広告塔の役割を担っているに過ぎません。  スピリチュアリズムの学びの本質は、現実世界での「生き方」を学ぶ事です。その際お手本になるのが、スピリチュアリズムの長い歴史の中でもたらされてきた「霊界通信」の数々です。その中でも高尚な存在からもたらされた「霊訓」と呼ばれるものが教科書的なものと言えるでしょう。    三十年近く前、私は、マネジメントゲームの創始者のお一人である西順一郎先生の下でマネジメントを学んでいた時期があって、当時、西先生に薦められるままに様々な「霊界通信」を読んでいました。とても為になる内容が書かれていることはわかりましたが、その頃の私が、その内容に得心していたかどうかというと、疑問符がつきます。 数々の為になる文章は、知識として記憶の片隅にしまいこんでいました。  その後、山本貞彰先生の下でスピリチュアリズムをより深く学ばせていただく機会に恵まれました。山本先生には知識を付けていただいたのは言うまでもなく、さらに先生のご指導をいただきながら、目の前に湧き起こる様々な現実の問題に、スピリチュアリズムの智慧を活かして対処していくことも学ばせていただきました。  山本先生の下で何年かご指導いただいているうちに、本当の意味でスピリチュアリズムの智慧が役に立ち、さらに自分のものになったと言えるようになりました。それ以来スピリチュアリズムがもたらし

Q&A 霊能力を人の役に立てたいと思っています

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【質問】  小さな頃から霊が見えます。この能力を人の役に立てたいと思っていますが、どうしたらいいですか?   【回答】 見えているものは本当に霊でしょうか?  人は物事を見たい様に見るものです。ただの壁のシミが人の顔に見えたりすることだってあります。  現在と違い土葬が主流だった時代は、墓の中のご遺体から発生する気体がプラズマ化したり、空気中のオゾンと反応したりして発火現象が起きることがありました。墓場に行って火の玉の目撃体験をした人も少なくないようです。当時の人はこの火の玉を亡くなった人の魂だと言っていたものです。  さらに、目の中の細胞が新陳代謝する時に、光のようなものやモヤのようなものが、見ている景色の中に紛れ込んでくることもあります。            質問者様が見ているものはもしかして 錯覚 かもしれませんし、あるいは 現代科学的に説明がつく現象かも知れません。  雰囲気を感じているだけではありませんか?    この店は感じが良い、あの公園はなんか殺伐としている、あそこの山に行くとリフレッシュできる、というような会話を私たちは普通にしています。同じように人に対しても、横柄な感じ、理屈っぽそう、オタクっぽい、穏やかそうな感じ、優しそう、誠実そう、というようにその人から出ている雰囲気を感じ取っています。 人は物事を見たいように見る上に、 その場の雰囲気も視覚に大きく影響しているのです。  まれに雰囲気を強く、もっと具体的に感じ取ることができる人もいらっしゃいます。そういった方はその場に残存している雰囲気を感じとって、その当時の状況を再見できたりもします。 しかしこの能力は雰囲気を感じているという範疇の中にありますので、 いわゆる霊を認知している訳ではありません。    質問者様が本当に霊を見ているのか、単に雰囲気を感じているだけなのかの区別は、次に示すように、正しい手順を踏んで熟達した霊媒に鑑別してもらうのがよろしいと思います。 見えているものが本物の霊だとしたら…  その能力をどなたか人の役に立てたいと思う気持ちは大切だと思います。ただしそこに 自己利益の追求 とか、 自己実現欲求の達成 のため、という動機があったら 本当の意味で役に立つ事はできない でしょう。  英国スピリチュアリズムが説く霊能者(霊媒)の基本的な立ち位置として 「霊媒は霊界の

健康で充実した人生を送る方法

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 近年、様々な病気に「心因性」とか「ストレス性」という言葉が付くようになりました。心因性疼痛、心因性発熱、心因性視覚障害、心因性頻尿、ストレス性胃腸炎etc  これらは文字通り、からだの不調の原因を「心」にあると認めることです。  からだ(肉体)を機械のようなものと見なしていた時代は、病気の原因は、肉体の機能や構造の問題によって、あるいは外界からの侵蝕によって起こるものと捕まえていました。  しかしながら臨床の現場では上に記したような原因だけでは捉えきれない病態が増えてきたことで、新しいアプローチでの研究が進みました。その結果として病気や不調の原因を心に求めるようにもなってきたのです。最近ではがんとストレスの関係性を研究されている研究者の方もいらっしゃるようです。  近年の医学会の研究に先立つように、100年以上も前にもたらされた霊訓(霊的真理)には「霊主肉従」という教えがあります。人間は霊の部分が主人(原因)で肉体はその従者(反映)であるという意味です。  霊の部分とはあなたの思い、考え、感情などの想念そのもののことです。つまりは霊とはあなたの心の有り様そのものなのです。ですから霊主肉従とは、あなたの想念(心)が原因であって、肉体にそれが反映されているという意味なのです。100年以上も前に「からだ(肉体)の健康の良し悪しの原因は心(霊)にある」という情報が既に人類にはもたらされていたのです。  一般的に「霊」という言葉には、曖昧さや漠然さが伴いますし、人によっては怖さや怪しさを感じるものではありますが、そういった方は霊を「心」とか「想念」とか「意識」というふうに読みかえることで、こういった論説に対する理解が進むことでしょう。  さて、では病気になってしまった時、そしてその原因が「心」にあると言われた時、どうすれば良いのでしょう?  医学書やインターネット上には、心因性の病気への対処法が溢れていますが、その多くは心理カウンセリング手法の焼き直しです。  評価を入れずに自分と現実を認める所からスタートし、少しずつ自分が持っている価値観を転換していくことでストレスを和らげていくというのが一般的な心理カウンセリングのルーチンです。  この方法で効果が上がり、病気や不調が治っていくのでしたらもちろん喜ばしいことですが、中にはそういった対処法では思ったような効果を得られない方

Q&A スピリチュアルヒーリングを受けていますが、特に変化が感じられません。 インチキでしょうか?

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  多分インチキかも知れません、早々に関わり方を変えたほうがいいでしょう。  まずはじめに、英語圏の方は spiritual という言葉をどのような感覚で捉えているのか確認しておきましょう。    spiritual の語幹である spirit を英語の辞書 (LONGMAN)で引くと、 性格、霊、態度、特徴、意図、勇気、酒 などと色々な使われ方をしていることがわかります。  一方で spiritual となると 「宗教に関すること」「肉体や精神活動ではなく霊に関すること」 と、グッと意味合いが狭くなります。日本語で spirit を 精神 と訳すことがありますが、精神とか精神活動という意味なら mind とか mental の方が英語圏の方にはしっくりくることでしょう。   spiritual には 宗教 という意味合いもあるようですが、宗教は 「霊」 に関わる言葉でもあります。    日本人は無宗教と言われていますが、その理由は、歴史的に日本人は霊性が高いので、規範としての宗教は必要なかったというのが通説です。ですから 宗教とは霊性に直結している問題 と言えます。また世界の多くの宗教では死後世界を説き、肉体を脱ぎ捨てた霊を祀ることもしていますね。  これらから spititual という言葉は 「霊」 とか 「霊性」 に関するものに使用するのが正しい使い方です。       「霊」が関わらなかったり、「霊性」にアプローチしないヒーリングを「スピリチュアルヒーリング」と名乗ることが、そもそもの間違いと言えるでしょう。    既にお存じかと思いますが、日本では 「スピリチュアル 」とか 「ヒーリング」 という言葉が際限なく広く使われているために、 「スピリチュアルヒーリング」 を名乗ってはいるものの、 実際は気功、色彩療法、あるいは磁気的療法etc、つまるところ、セラピーの類である場合が多々見受けられます。    しかしながらこういった気功などの 磁気的療法 は、 刺激が強いため、五感(肉体)で捕らえられやすい傾向があります。ですから即効的であるような錯覚を起こしやすいことも事実です。ですが効果があるのはあくまで肉体レベル、精神レベルです。   では 霊的レベル とはどういったことでしょうか?  自分の内面が揺さぶられた感覚はあるものの、それを言葉