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親も老いる

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実家の新築に伴って、四半世紀ぶりに実の両親と同居する事になったある女性クライアント様。 同居された当初はお母様と上手く関係性をつくることができずに、いつもイライラ、カッカッしていらして、当院に治療にいらっしゃる事で平静さを取り戻すということを繰り返していらっしゃいました。 何度か治療を重ね、それが深まるに連れて、少しずつご自身や周りの様子を客観視できるようになった頃、こんな事をお話しをしてくれました。 「自分の親も年寄りだっていう事を忘れてました。年寄りってこんなもんだと受け入れる事が出来たら、母親に対してイライラしなくなりました」と。 どうやらこのクライアント様にとっては、それまでのお母様のイメージは、結婚して実家を離れた時の若かった頃の母親のままだったようです。 同居してみてわかった事は、お母様も年をとられ、出来る事が限られてきていた上に、スピードも昔のようにはいかなくなっているし、物忘れもする…。 こんなはずじゃなかった!という固定観念と現実の狭間でもがいていた自分にお気づきになられたのです。 私も親が60台半ばを過ぎた頃には、このクライアント様のように親に対して腹を立てていた時期がありました。 「こんなこともできないの?」「えっー、この前言ってたのに忘れちゃったの…」「もう!危なっかしい運転するなぁ」etcと。 自分が子供の頃、すべてを親に守られていた時は、親はスーパーマン、スーパーウーマンであって、あらゆる面で自分よりも優れていると思い込んでいました。 さすがに物心がつき始めると、親の長所や短所がわかるようになってくるのでそのような勘違いは剥がれてきますが、「親も老いる」ということだけは直面してみないとわからない受け入れ難い現実でした。 でもやっぱり親も老いるのです。 限りある肉体に宿っている以上誰もが老いるのです。 自分も老いるという現実を受け入れ始めると、親に対しても、自分に対しても、そして周囲の高齢者に対しても優しくなれるような気がします。 「肉体は老いるがそれとともに意識体は成熟していく」とシルバーバーチは伝えています。 本当はこちらの方に目を向けて自分自身を振りかえらないといけないのでしょう。

苦行は自分のためにならず

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ある宗教団体では、滝に打たれたり、火の上を歩いたり、断食したり、千日間山を歩き回ったりすることが、悟りを得ることに連なり、聖者となれるかのように伝承されているそうです。 いわゆる苦行と呼ばれているものは、ある種の精神的な鍛錬の手段として昔から存在していますが、これら古臭くてカビが生えたような行を、現代の科学的・医学的見地から眺めれば、肉体には百害あって一利無しということは明らかです。 もしもこのような苦行を行なう事で、本当に再生の必要が無い程に魂が浄化されるのであればこんな簡単な話はありません。 地球に再生してきた人類が、こぞって伝統的な苦行を行ないさえすれば、生まれてきた目的を果たせるということになってしまいますから… 気をつけなければなりませんが、苦行には「エゴイズム」という罠がしかけられています。 一つの苦行をクリアした事による自己陶酔、複数クリアして行くたびに深まる優越感、苦行を行なっていない人々への軽蔑の気持ち…、自己満足にしか過ぎないのに、まるで自分が聖者にでもなったかのような勘違いをもたらしていきます。 特殊な場に赴いて肉体を痛めつけることでは、魂の鍛錬にはなりません。 現実生活の中で起こる様々な問題に誠心誠意向き合ってクリアして行くことだけが、本当の意味での魂の鍛錬となり、霊的に完成していくことです。 三次元での修行のために、両親が用意してくれた肉体という乗り物は大切に扱いましょう。 肉体を甘やかすという意味ではありません。 いつかやって来る地球への返却の日まで、感謝しながら、労りながら、手入れをしながら使い続けるのです。