盂蘭盆会に想う / 寛容

今年もお盆の時期がやってまいりました。 多くの日本人の御多分に洩れず、私も故郷に帰省して、近親者やら、生前に会ったこともない(笑)親戚やらの墓参りをしております。 もちろんお墓にその方たちがいらっしゃらないことは百も承知していますし、お墓が単なる物質的な記念碑であるということも理解しています。 私が今世を去った時には、残した人たちに迷惑を掛けたくないので、お墓も要らないし骨は散骨か、もしくは遺体の段階で献体して欲しいと思っているくらいです。 まあお盆という行事をがあるおかげで、連続して休暇が取れるわけですし、また旧知の方とこの時期に再会することができたりしているのですから、宗教的な意味合いは横に置いておいても、まあ有難い事と思っていたら良いのではないかと… このように長年に渡って慣習的に続いているという事実は、人々が経済社会生活を営む上で何かしらの恩恵をもたらしてきたという証だとも思いますし… 霊界の真実を知るようになると、既存宗教の欺瞞やら迷信性に敏感になりますので、慣習的に行われている宗教的行事や行為を目の敵にして、徹底的に排除しようと試みようとする時期があります。 しかしながらこういった盲信性は、自分とは異質なモノに対して「自分は正しくあなたは間違っている」という未熟な意識から生まれる事が多いので注意しなければなりません。 私はキリスト教徒でもありませんが、イエスはまずは隣人愛を実践しなさいと教えました。 隣人愛という視点から見たら、自分とは異質なモノを理解するという事がその方の愛をより高めるために必要な第一歩です。 日常の生活においても、自分とは異質な人や事象に遭遇すると不愉快な気持ちになる事が多々あります。 そんな時、異質なモノを好きになれとか迎合しろということではなく、理解しようと努力することが大切です。 理解できれば受け入れる事ができるようになり、受け入れる事が寛容を育みます。 寛容は高次の愛の大切な一面です。 どの宗教でも、原初は霊界の実在を伝えるところから始まっているはずなのです。 日本人は宗教的なものには寛容な国民性ではありますが、こういった機会に宗教的慣習の背景にある本当の意味を洞察する事も必要かもしれませんね。