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ひとつ諦めました

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裏庭を失くしました。 家を建てる前からあった柿の木と梅の木、それと少々のハーブが植えてあった10坪もない小さな裏庭です。 とはいえウチの中では最も大きな植栽エリアでしたので、小さいながらもそれなりに手入れが必要でした。 放っておけば雑草は生えます。 ハーブは花の時期が終わったら剪定しなければなりません。 柿や梅の木も見栄えや花や実の付きが良くなるように季節ごとの剪定が必要ですし、害虫がつかないように消毒したり、肥料も与えなければなりません。 それぞれの作業は大変でしたが、植物たちはこちらの手入れに応えてくれるので、楽しみながら付き合っていました。 それがここ2、3年でしょうか、楽しめなくなってしまったのです。 他事で少々忙しくなってきて十分に時間が取れなくなってきてしまった事がひとつ。 手入れをマメにできなくなった事で、作業をまとめてやらざるを得なくなってしまい、一度作業を始めると2時間や3時間は当たり前にかかるようになってしまいました。 年齢的にも以前のような体力はありませんので、一回一回の作業がきついものになってしまったのです。 雑草が生えてきている庭を見ていると、なんとなく気もそぞろになりますし、花の時期が終わって萎れて放置された花を見るとかわいそうな気持ちにもなります。 今まで心のオアシスになっていた庭という存在が、心の負担に変質してしまいました。 そんな中、曽野綾子さんの著書でこんな文章を発見しました。 「人間が高齢になって死ぬのは、多分あらゆる関係を断つということなのである。分を知って、少しずつ無理がない程度に、狭め、軽くしていく。身辺整理もその一つだろう。使ってもらえるものは一刻も早く人に上げ、自分が生きるのに基本的に必要なものだけを残す。人とは別れて行き、植物ともサヨナラをする。人とも物とも無理なく別れられるかどうかが知恵の証であろう。会うより別れる方がはるかに難しい。種類を減らし、鉢の数を減らし、鉢を小さくし、水やりと植え替えがあまり要らないものにする。人とも花とも、いい離婚は経験豊かな人にしかできない」(「緑の指」抜粋) この文章を読んでハッとしました。 そうか自分も庭があるということに執着していたのかもしれないと。 よくよく自分を内観すると、内面にはまだまだ黒いものが潜んでいるということがあぶり出されてきました。 そしてこのままの気持ちで植物た

私たちは水槽の魚

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水族館を思い浮かべてみましょう。 水槽には大概、「魚のストレスになるので水槽を叩かないでください」と注意喚起がしてあります。 しかしながら、良識のない人やマナーの心得のない人に限って、水槽をコツコツやっているものです。 一匹でも興味を持った魚が近寄ってくると、ここぞとばかりに指をあっちにやったりこっちにやったりして、ひとしきり魚をもてあそびます。 そして自分が飽きてしまうと、プイッと魚のことを放り出して、次の展示に行ってしまいます。 この世に生きる私たちも、水槽の中の魚のようなものと考えてください。 あちらの世界から見ると、水槽の中は丸見えなのです。 もうすぐあの魚と出会うとか、そっちに行くと何かとぶつかるとかおおよそ見当がつきます。 そして良識やマナーに欠ける未熟霊に限って、水槽をコツコツやるのです。 霊感に長けた人はそのコツコツを感知しますから、なんだろうと思ってそのコツコツの方に近づいて行ってしまいます。 コツコツやった未熟霊は面白がって、ひとしきりその人をもてあそぶのです。 そして自分が飽きるとプイッと放り出してしまうのです。 霊的な感知力に優れた人ほど、理性を駆使して現象を捉えなければなりません。 あちらからの働きかけのすべてが、愛に溢れたものとは限らないのです。