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修行考

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意識の高い方々の中には、この世を修行の場と捉えていらっしゃる方が少なくありません。 経験豊富で気品漂うお年寄りの口から、穏やかな調子でこういう話が出てくると、なるほどそうだなあと周囲を納得させる不思議な力があります。 どこかで霊的真理を勉強されたわけでもなく、かといって特定の宗教に深く帰依されているわけでもありませんが、人生経験を通してこうした考え方が自然に身についていらっしゃったのでしょう。 とかく修行というと、肉体を痛めつけたり、人為的に精神的な追い込みをかけるような難業苦行を想像しがちです。 また、自分自身で自分を追い込む事によって生きている実感を得たり、追い込み自体が目的になってしまいそれが快楽にかわってしまっているような方を修行体質と呼んでいますが、そういう事でもありません。 以前にも述べていますが、肉体はこの世を過ごすために創造主からお借りしているものですから、出来るだけ大切に使ってお返ししなければなりません。 またこの時代のこの国に生まれることは二度とありませんので、生きていることを楽しんだら良いと思います。 ただこの世の享楽に溺れてしまっては人生の目的を見失ってしまいますので、充分に用心しなければなりません。 様々な因果の結果として私たちはこの世に生まれてきていますので、人生の大部分は修行である事には間違いありません。 生計を立てること、障害や病気を克服すること、煩雑な人間関係、誰かのお役に立つこと…、これらの問題に正面から立ち向かうこと自体が修行と言えるでしょう。 霊的真理から言えば、霊性を向上させることがこの世の人生の、修行の目的です。 誰しも経験があると思いますが、考え方やモノの見方を変えるだけで、目の前にある苦難が180°転換してしまう事があります。 ある事象を修行と捉えてもがいていた自分を、思考の転換があっという間に解放してしまうのです。 もはやその事象はその人にとって修行ではなくなってしまいます。 つまりは霊性進化あるいは向上の階段をひとつ昇ったことになるのです。 考え方やモノの見方を変え続けていく努力こそがこの世の修行を乗り越えるただひとつの方法かも知れません。 霊性進化の本分はここにあるのでしょう。