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霊性退化?

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おかげさまをもちまして、近年は各地でワークショップを催させていただいております。 取りまとめにご尽力くださっている皆様、ご受講くださっている皆様にこの場を借りてお礼申し上げます。 性別、年齢、職業を問わず、実に多様な方達がお集まりくださり、熱心にご受講いただいています。 ご受講されていらっしゃる方々プラスその方を応援している方々の熱気で会場が本当に暑くなることもしばしばあります。 そんなご受講者の中にこんな告白をなさる方が時々いらっしゃいます。 「永いこと勉強させていただいているつもりなんですが、あまり自分が成長している実感がわかないんです…、というより、あれっ?自分は逆に退化しているんじゃないかと思うくらいなんです…」と。 霊的真理を学び、謙虚にそれを受け止めて自分自身の評価に使うようになると、このような感覚になるときがあります。 これはその方が退化しているわけではなくて、それまでとは違った尺度、観点で自分自身を見つめ始めたことにより、自分自身を見る目が厳しくなった結果として起こることです。 生半可な知識でわかったような気になっている時ほど、気づかぬうちに高慢な気持ちが芽生えていき、自分自身を見る目が甘くなっていくものです。 自分に自信を持つことは大切なことではありますが、その自信には常に高慢さが諸刃の剣となって潜んでいることを忘れてはいけません。 進化しているつもりが実は退化していたなんてことになりかねません。 一方、謙虚な人ほど、先に述べたように自分を厳しく評価します。 決して退化しているわけではなく、その方は謙虚さという徳を得たと言えるでしょう。 聖書にこのような一節があります「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。(マタイによる福音書18章3、4)」 自分を低くするとは、謙虚さや慎ましさの事を指します。 自分自身を見つめる目を厳しくした結果として退化しているように感じている時ほど、その方は霊性が進化していると言えるのではないでしょうか。

造詣が深い方… 穏やかな警告

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スピリチュアリズムの薫陶を授けてくださった山本貞彰先生は、当時あまり生徒を褒めるようなことをなさいませんでした。 その人の考え方だったり、生活習慣だったり、時には進路についてアドバイスを下さる時は、忠告や警告という形が多かったように記憶しております。 ある時、某地方都市で山本貞彰先生のセミナーが開かれることになり、私も一受講者として参加しておりました。 初めて顔をあわせる方が多かったせいもあり、受講者の自己紹介の時には、山本先生がその方についての人柄とか経歴とかを一言づつ付け加えて紹介をしていらっしゃいました。 その一言というのは普通は当たり障りのない一言なのですが…、とある受講者の時です、珍しくその方を持ち上げるような一言が発せられました。 「こちらの方は長いことスピリチュアリズムを学ばれておりまして、私が知らないようなことでもご存知の、スピリチュアリズムに大変造詣の深い方です」と。 言われた本人は大先生に褒めそやされたものと思い、まんざらでもないような顔をされ、ニタニタとした笑いをかみ殺していた姿が私の目に焼き付いています。 当時山本先生が「造詣が深い」「うんちくに富む」というような言い回しをされる時には、そこには裏の意味がありました。 それは「知識欲や知識そのものは豊富だが、学んだその知識をちっとも実践で活用しない人」という意味です。 その頃私は頻繁に山本先生にお会いする機会がありましたので、先生の発言とその真意を知ることができたのですが、そうでない方々の中には先生の一言を真に受けてしまう方もいらっしゃったのです。 プライベートリーディングの時はもちろんのこと、スピリットヒーリングをさせていただいている時でも、スピリットガイドから様々なメッセージが送られてきます。 基本的にはその方の霊性向上、意識体浄化を望む愛に満ちたものが多く、時には𠮟咤激励だったり、時には涙を誘うようなものだったりします。 ただクライアント様によってはそういった直接的なメッセージでは刺激的すぎるので、穏やかな警告という形で送られてくるものもあります。 まさしく件の山本先生の一言と同じような構図です。 一歩先を行っていらっしゃる方にとっては、後から来る人物の状態が手に取るようにわかるものです。 先達から頂いた一言は、充分に反芻して消化しなければなりませんね。