投稿

7月, 2017の投稿を表示しています

何を食べたら良い?

イメージ
クライアント様や受講者様から様々な質問を受けますが、その中でも「食べ物」に関するテーマは結構な頻度で尋ねられます。 肉体の健康のため、精神的な健康のため、霊的な健康のため、と質問される方は様々なレベルで質問を投げかけてきます。 私は医療系の免許を持っておりますが、食の専門家ではないので、あくまでも自分の体験や医学的文献からの引用で答えざるを得ませんが、私なりに一定の見解を持っています。 結論から言うと「体の声をよく聞いて、体が必要としているできる限り自然な食べ物を、感謝して召し上がってください」ということになります。 この飽食の時代、若い方などは特に顕著ですが、「食べたいものを食べたい時に食べたいだけ食べる」というのが一般に見られる光景です。 精神性が肉体の欲望に負けている状態といっても良いでしょう。 しかし流石にそういう生活をしていると、年齢を重ねるにつれて肉体のあちこちが悲鳴をあげ始め、ある程度の節制を余儀なくされるものです。 そしてこう思うのです「あの時、もう少し考えて食事を摂っていたら…」と。 一方で、ご自身の内面性とか霊性に目を向け始めた方は、食材が発するバイブレーションに対して敏感になっていくようです。 するとそういう方達の中には、自分の内面的な平和を守ろうと、動物が持っている荒々しいバイブレーションを避けるために菜食主義に傾いていく方もいらっしゃいます。 肉体の欲望をある程度コントロールできるようになったレベルと言えますが、まだ発展途上です。 東南アジアなどの仏教国で見られる出家僧たちは、托鉢をして在家信者からその日の食べ物をいただきます。 出家僧には好き嫌いをすることは許されず、いただいたものは全てお腹に納めなければなりません。 これは食欲が悟りの修行を邪魔しないよう、食べ物に対する執着を捨てさせる訓練なのです。 私も一時期食べ物にこだわっていた時期がありましたが、ある日、こだわるということは何事も自分の我だとか、執着から生じていることなのだと気づくことができました。 その日以来、より視野を広げて食事を摂ることを心がけるようになりました。 私たち人間が生きるために、食材が差し出してくれた命に優劣はつけられません。 菜食主義も悪くはないですが、より大きな視点から見るといずれ卒業すべき課題です。 一方で、年齢を重ねるにつれ、自然に苦手になっていく食材があ

法則を味方にしよう

イメージ
ここ十数年、様々な習い事や自己啓発型のワークショップなどが大流行りなのは皆様ご存知のとおりだと思います。 時間的に、経済的に、そして心理的に日本人に余裕ができてきた証だと思います。 私も今までに様々な学びの場に参加したことがあります。 スポーツ系、武闘系、自己啓発系、マネジメント系、スキルアップ系…等々。 その一つ一つは当時の自分にはとても役に立ちましたし、そこで学んだ事柄は今の自分を形作る重要なパーツとなっています。 しかしながらこういった学びは、時期が来るとよく言えば充足感、正直に言うと飽きてきてしまう時がやってきます。 まあその場から遠ざかれば、あとはスッキリ足を洗うこともできますし、学んだことを活かさなくてもそれはそれで済んでしまいます。 ところが霊的真理の学びはそうはいきません。 霊的真理を学ぶとは、換言すれば世の中の法則を学ぶことであります。 法則ですので、ある方が学びの場から去ったとしても、法則はその方に付いて回るのです。 私が初めてスピリチュアリズムを通して霊的真理を学んだ頃は、学ぶ喜びや知る喜びが大きかったものの、同時に法則の厳しさや学んだことの責任も痛感しました。 中にはその厳しさを直視できずに学びの場から離れていった仲間もいましたが、よくよく考えてみると、霊的真理の学びをやめたからといって、法則から免れることは誰にもできないことだと気づきました。 であるなら、いっそ学びを極めてやろうとふつふつと闘志が湧いてきた記憶があります。 あの時に食らいついていたおかげで、今では随分とこの世を生きることが楽になりました。 法則を知り、その法則に沿った人生を歩む努力をすれば、こんな境地が待っていたんですね。 こんな境地を一人でも多くの方に是非体験していただきたいと願っています。 これまで多くの方に霊的真理のお話をさせていただいてきました。 ぜひ法則(霊的真理)が味方になるまで学び続けていただきたいと願っています。