投稿

4月, 2021の投稿を表示しています

Q&A シルバーバーチの霊訓に書いてあることは全て正しいのでしょうか?

イメージ
  19世紀に勃興した スピリチュアリズム 。   当時、欧米各地では、霊界と交流する小さな集会(交霊会)が頻繁に行われるようになりました。   交霊会では、 他界した近親者との交流 が行われたり、 不思議な物理的現象の実験 が行われたり、高級霊と呼ばれる存在から 死後の世界の真実や宇宙を支配する法則 などについての情報を得るようなことが行われました。    その中でも特に英国では、知識階級、政界、経済界の重鎮やノーベル賞を受賞した科学者までもが交霊会やスピリチュアリズムに関わり、研究対象として真摯に取りあげられ独自に発展していきました。  スピリチュアリズムでは霊界からもたらされた情報を 霊界通信 と呼んでいますが、この中でも特に高級霊からもたらされた情報を、霊からの訓え(おしえ)という意味で 「霊訓」 と呼んでいます。  当時、霊訓は様々な高級霊からもたらされておりますが、 シルバーバーチ と名乗る霊もそのうちの一人です。  私も様々な霊界通信や霊訓に触れましたが、複数に亘って共通性のある記述があるものもあれば、ある霊界通信では触れられているのに他の霊界通信では触れられていないものもありましたし、霊界通信によっては相反する記述が存在する場合もありました。  これをどう理解したら良いか悩まれる方は私に限らずいらっしゃることと思います。  一般に 高級霊 とは、地球上で修行をしている私たち人間よりも徳性が高く、知恵も豊富で、法則の知識にも長けている存在とされています。  これらを総じて 「霊格」 と言う言葉で表したりしますが、つまり私たち人間よりもずっと霊格が高い存在を高級霊と呼んでいるのです。  しかしながら高級霊とて、全知全能の神そのものではありません。  彼らも霊的な進化の発展途上にある存在であって、地球に住む人類よりはずっとずっと先を行っているものの、 未熟な点があることを忘れてはいけません 。  彼らが意図せずとも内容には 誤謬 があるかも知れないのです。  さらに霊訓自体も、時代背景を考慮しながら読み進めなければなりません。もちろん 霊訓によってもたらされる霊的真理そのものは太古の昔から、そして未来永劫も変わるものではありません。  ただそれをわかりやすく伝えるためには彼らなりの工夫をしている点がありますし、何より 無限な世界のことを、言葉という有限なも

生まれながらのミディアムは自らミディアムと名乗らない

イメージ
 2000年代初頭の頃からでしょうか、日本ではスピリチュアルという言葉が市民権を得て、あちらこちらで普通に聞かれるようになりました。その前、1990年代〜2000年頃にかけては、新興宗教団体による霊感商法問題や洗脳騒動、カルト教団によるテロ事件や集団自殺事件などがマスメディアで大きく取り上げられ、報じられていました。  そのような時代背景の中では目に見えない世界の事を話題にする事は一種のタブーであり、本当に信頼のおける仲間内でしか話題にする事ができないというとても窮屈な時代でもありました。その窮屈な時代ではスピリチュアルだの、ヨガだの、瞑想だの、グルだのという言葉は、発するのすらも憚られたものです。  そういう窮屈さを打破したという点で、自称スピリチュアルカウンセラーのE氏が果たした役割は、とても大きかったという事ができます。スピリチュアルという言葉に市民権を与えたという点では功績と言えますが、功罪相半ばするという言葉があるように、同時によろしくない影響をもたらした面も否めません。  メディアでのE氏の活躍を見た方の中には「スピリチュアルは儲かる」と勘違いして、何でもかんでもスピリチュアルと関係付けして商売したり、E氏の真似事をして霊界からのメッセージ伝えているように装って金儲けしたり、霊界からメッセージを受けていると勘違いしたイタイ人を多数輩出してしまったりした面もあります。  これらの結果としてスピリチュアルという言葉が一人歩きしてしまい、本来の意味をわきまえている人や、本物の霊能者を知る人がほとんどいらっしゃらなくなってしまいました。スピリチュアルを胡散臭いと考える人はたくさんいらっしゃいます。   人格的にも素晴らしく、しっかりと霊界の住人とコミュニケーションを取る事ができ、相談者に的確なアドバイスができる霊能者(霊媒) は昔から存在していらっしゃいますが、そういうちゃんとした霊能者さんからしてみたら、現在のスピリチュアルを取り巻く環境は、商売の邪魔でしかない事でしょう。スピリチュアルという言葉が市民権を得たおかげで、目には見えない世界への関心を持つ人が増えたという点では、商売のパイが増えたように思われる方が多いでしょうが、実際のところは、そういった「本物」が埋もれてしまいがちになってしまっているからです。   本物は少数であり、少数であるからこそ価値があり