苦行は自分のためにならず
ある宗教団体では、滝に打たれたり、火の上を歩いたり、断食したり、千日間山を歩き回ったりすることが、悟りを得ることに連なり、聖者となれるかのように伝承されているそうです。
いわゆる苦行と呼ばれているものは、ある種の精神的な鍛錬の手段として昔から存在していますが、これら古臭くてカビが生えたような行を、現代の科学的・医学的見地から眺めれば、肉体には百害あって一利無しということは明らかです。
もしもこのような苦行を行なう事で、本当に再生の必要が無い程に魂が浄化されるのであればこんな簡単な話はありません。
地球に再生してきた人類が、こぞって伝統的な苦行を行ないさえすれば、生まれてきた目的を果たせるということになってしまいますから…
気をつけなければなりませんが、苦行には「エゴイズム」という罠がしかけられています。
一つの苦行をクリアした事による自己陶酔、複数クリアして行くたびに深まる優越感、苦行を行なっていない人々への軽蔑の気持ち…、自己満足にしか過ぎないのに、まるで自分が聖者にでもなったかのような勘違いをもたらしていきます。
特殊な場に赴いて肉体を痛めつけることでは、魂の鍛錬にはなりません。
現実生活の中で起こる様々な問題に誠心誠意向き合ってクリアして行くことだけが、本当の意味での魂の鍛錬となり、霊的に完成していくことです。
三次元での修行のために、両親が用意してくれた肉体という乗り物は大切に扱いましょう。
肉体を甘やかすという意味ではありません。
いつかやって来る地球への返却の日まで、感謝しながら、労りながら、手入れをしながら使い続けるのです。