Q&A 霊訓の厳格さについて行けません
【質問】
スピリチュアリズムの霊訓は道徳性を説いていると感じます。それを真面目に守っていると損をしている気持ちになることもあるし、霊訓には厳格なところもあるので投げ出したくもなります。どうしたら良いでしょうか?
【回答】
子供の頃、雑誌の付録や工作の時間などで何かを組み立てたり、算数の時間に画用紙で立体図形を作ったりした経験はどなたにでもあることでしょう。男の子の場合でしたら、プラモデルを作った経験は一度くらいはあると思います。そういった場合、必ず糊や接着剤用の「のりしろ」と呼ばれる余剰スペースがありました。
「のりしろ」があるおかげで上手く綺麗に組み上がりました。仮に「のりしろ」が無いままに組み立てようとしたら、組み立てに苦労するでしょうし、安定性や耐久性に欠けるものが出来上がることでしょう。
また、自動車をはじめとした機械類には、操作する部分に「あそび」と呼ばれる余剰部分があります。ハンドル、アクセル、ブレーキ、クラッチ等にある、操作してもすぐには反応しないための機能です。「あそび」はドアや窓といった建具、あるいは日本中に張り巡らされている電線にもあります。暖かい時期に電線をピンと張ってしまうと、気温が下がった冬などには、内部の銅線が緊縮してしまい断線する可能性があるので、電線を張るときは余裕を持たせて張るのです。
以上のような「のりしろ」や「あそび」というものがなくなってしまったら、かえって脆くなったり、意図しない急激な変化が生じて危険性が増したり、融通性が無くなることでちょっとした変化に対応できなくなってしまいます。
これと同じく、精神衛生上、私たちの心にも「のりしろ」や「あそび」を持つことは大切なことです。
さて、スピリチュアリズムがもたらした霊訓に限らず、既存の宗教の多くは、人の生き方として”善なる道”を説いています。それを道徳と捉えても間違いではないと思います。しかしながら自分で考える事をやめてしまい、霊訓や歴代の聖典に述べてある事を鵜呑みにし、その説く道から一歩もはみ出さない事だけを生き方の信念としてしまったらどうなるのでしょう?おそらく精神的に苦しいだけの人生になってしまうのではないでしょうか。
中にはそういう苦しみの中に身を置く事で、自分が成長できているように勘違いをしている方もいらっしゃいますが、こういう方は自分に厳しい分、他人に対しても同じように厳しい方ですので、人望は得られないでしょうし、高次の愛を育むこともできないでしょう。だからと言って積極的に悪の道を歩むことも、多くの方は心の内で良心の呵責と闘うことになりますので、同じように精神的には苦しく、平安は得られないことでしょう。
霊訓や聖典が説く”善なる道”は、私たち人間よりも進化している存在からの教えであり目標とする姿です。すでにクリアしてしまっている課題は目標にはなりません。つまり、この地球に生まれてきている人類のレベルは、未だその目標に向かっている発展途上霊であるということです。
発展途上霊とはいえ、その中にも進化の度合いは色々あります。
”善なる道”をすぐ理解し行動に移せる人
”善なる道”をなかなか腑に落とす事ができない人
”善なる道”を全く無視してしまう人等々。
学校の進級のように、各自の進化の度合いによって学ぶべきものは違うのです。
質問者様は、過去生までを含めてこれまで様々な経験や経緯があった上で今回、スピリチュアリズムがもたらした霊訓に触れる機会を得ることができたのです。機が熟したのです。ご本人は自覚がないかもしれませんが、潜在的には霊訓を理解し実践できる方だとお見受けします。
ただし、上に書いたように、霊訓に書いてあることを鵜呑みにしてはいけません。金科玉条のように奉り、ドグマのようにそこから外れることを恐れるようになってはいけません。
私たちは人生や生活の中で直感的に善悪がわかるものがある一方で、社会や人間関係が複雑化している現代社会では、何が善で何が悪なのか迷ってしまうことの方が圧倒的に多いものです。ですから霊訓が説く”善なる道”については、しっかりと自分の頭を使って考え、受け入れられるものは受け入れ、未だ受け入れる事ができないものは保留にしておく事をお勧めします。
受け入れられるようになるまで待てば良いのです。言い換えれば、自分の心に「のりしろ」「あそび」を持つのです。
霊訓の訓え(おしえ)だからといって全て今すぐに受け入れる必要はないのです。心に「のりしろ」や「あそび」が無いと、心が脆くなったり、変化に対応できなくて危険な状態にもなってしまいます。
全ては最良のタイミングで生じます。いずれの日にか保留にしておいた事項が、腑に落ちる経験をなさる事でしょう。その時がまさに質問者様にとって最良の学びの時なのです。
余談になるかもしれませんが、同時に多くの霊訓では人生を楽しむことも推奨しています。心に「のりしろ」「あそび」という余剰部分があればこそ、人生に生じる機微を楽しむこともできるようになるのです。
最後に、質問者様のように自分は”善”を行なっているのに、報われないとか、損をしていると感じてしまっている方は存外にいらっしゃるものです。
しかしながら、そういった気持ちになってしまっている方たちの思いを理解し、共感ができる人物は、同じ体験をして同じ気持ちを抱いているあなたしかいらっしゃらないでしょう。
そういった方達への真の慰みは、あなたしか与えることができないということもできます。
ですから、世話をしてくれた方に心からの感謝の言葉を伝えたり、一所懸命に他人のために尽くしている方に積極的に労いの言葉をかけたり、正しいことをしていらっしゃる方に称賛の言葉をかけてあげたりして差し上げたら、そういった方達はきっと救われた気持ちになるに違いありません。
救われた体験をした方達が次はあなたに感謝、労い、称賛の言葉をかけてくれることでしょう。 こうやって自分の周りに親切や感謝が溢れる関係性を作る事ができるのです。そんな関係性の中で過ごす事ができたとしたら、あなたの人生はこれまで以上に素晴らしいものになるに違いありません。